水紀行 - 千葉その参 葛飾湧水群
今回は、JR「西船橋駅」から寄り道をしながら「下総中山駅」までの散策です。
国道14号線は、ここ船橋市東中山では丘陵の麓に沿って走ります。中世までは海岸線だったところです。この地に、葛飾湧水群と呼ばれるいくつかの湧水があります。その湧水を巡っていきます。
勝間田の池
西船橋駅北口から国道14号線出て左折すると、不自然に西行きの車線と東行きの車線が別れている場所に出ます。間には松の木。南下がりの傾斜地なんですね。同じ場所から南方向を移したのが右の写真。下っています。
ここからさらに南は真ッ平らな土地が海まで続きます。中世まではこのあたりまで東京湾がせまっていたそうです。縄文時代は中世よりも水位は高かったそうですから、海岸線はさらに北にあったのでしょう。
さて、最初の湧水は「勝間田の池」です。ご覧の通り公園です。湧水自体は滅失してしまっていますが、公園の最奥には人工的な湧水池がかつてはあったようで、埋められてもしばらくは湧水が湧き出していたようです。敷地は大きく、かなり大きな湧水池だったのでしょう。
葛羅の井
かつての「勝間田の池」、勝間田公園のすぐ隣に葛飾神社があります。本社殿の横には井戸枠がありました。残念ながら枯渇してはいましたが。この散策全体を通してわかったことですが、この地には地下を流れる水は現在もなお豊富です。この井戸も復活させて欲しいものです。
葛飾神社の横の細い道を北上します。京成本線の踏切を越えてしばらく行くと、右手に「葛羅の井」があります。
市が設置した案内板は道路に面しているのですが、「葛羅の井」は民家の裏にあります。よくもまあ、この存在を許しているものです。私たちにとっては嬉しいことですが、井戸に隣接する住人の方たちは大変でしょう。ありがたいことです。周辺はとてもきれいに清掃されていました。
ゲエロの池
「葛羅の井」からさらに北へ。谷に沿って歩いているので起伏はありませんが、左右は坂だらけ。起伏に富んだ土地のようです。
「ゲエロの池」は、レンガが張られた数棟の団地の敷地北側にありました。市か管理し設備も立派でしたが、コンクリートの側壁には黄色のペンキで「いけにはいるなキケン」の文字が。住民の思いは複雑なようです。
北上を終え、国道14号線に戻ります。ここから国道14号線沿いに葛飾湧水群の痕跡をたどっていきます。
葛飾神社の池
中山競馬場入口交差点を越えます。北へ向って急な上り坂が続いています。中山競馬場から京成本線「東中山駅」までの道は通称「おけら街道」。下り坂だったんですね。良かった。「おけら」になった上に帰り道が上り坂だったら踏んだりけったりでしょう。
そんなことを考えながら歩いているとすぐに「葛飾神社の池」に着きました。ここも市の管理でしょうか。設備はしっかりしています。葛飾神社からは離れていますが、おそらくかつては神社所有の土地だったのでしょう。水も比較的透き通っていて、鯉がゆうゆうと泳いでいました。
次の湧水池に向う途中にあるのが、かつての「大溜」。大きな湧水池があったそうですが、今はここも公園になっています。
この地の湧水は今もまだ健在です。雨が降ったわけでもないのに、民家の敷地の到るところから水が流れ出ています。
二子浦・二子藤の池
かつて「大溜」という湧水池だった公園のすぐ西に「二子浦の池」はありました。再整備でもしているのかというような状況。水はかなりよどんでいました。
船橋市は条例により保存を決めただけで、管理は地元の方々に任されているとのこと。人工的に造られた湧水池は管理を続けないと荒れていきます。水の流れが自然ではない場所は特にそうです。
「二子浦の池」から道ひとつ西に「二子藤の池」はありました。こちらの水は「二子浦の池」に比べればまだましでした。周囲の清掃も行き届いているようです。管理状況の差が水質の状況に現れているようです。やはり湧水を維持管理していくことは市街地では大変なことなのでしょう。
下総中山駅が近づいてきました。かつて「緋鯉沼」と呼ばれた西部公民館の前を通り、京成線中山駅の南側、かつて「蓮池」と呼ばれる池があった蓮池公園にたどり着きました。
葛飾湧水群は、国道14号線から一歩北に入ると起伏に富んだ谷津の地にありました。
「谷戸」と呼ばれる地形がなぜ北総では「谷津」と呼ばれるのか不思議に思っていました。「谷戸」は一般名詞ですが「谷津」は地名か人名でしか辞書には出てきません。しかし、北総では確実に一般名詞で「谷戸」を「谷津」と呼んでいます。
おそらく「谷戸」の多くが海に面していたからではないのかと今回歩きながら思いました。海岸線において「谷津」という呼び名が定着し、それが内陸部の「谷戸」地形の場所でも使われるようになったのではないでしょうか。
高度成長期に急激に都市化したこの周辺は、ほかの東京都市部を取り巻く地域と同様、多くの「成功者」と「失敗者」を生んだ土地です。現在の中国のようなものでしょう。
私は中学・高校時代を隣の市、市川市で過ごしましたが、私の通っていた市川第三中学校の私の学年は13クラス。私が3年生の時の1年生は23クラスありました。翌年、中学校がいくつも新設されました。発展する状況を見続けていた私の目にはこの地は古戦場に映ります。
そんな、驚くべき急成長の中でたまたま取り残された湧水池を無理やり残しても、きちんと管理しなければ無意味というか、あえて言えば有害なことかもしれません。今回、葛飾湧水群をめぐりながら私の心は空しさを感じること禁じ得ませんでした。
水が湧き出し、流れていく水路があってこその湧水池です。ただの水溜りであれば、悲しいことではありますが、埋められてしまうのは時間の問題かもしれません。もし船橋市が条例を定めた志を貫くのであれば、いま一歩踏み込んだ対策が必要でしょう。
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