水紀行 - 東京その弐 明治神宮御苑清正井
明治神宮御苑の森にある湧水「清正井(きよまさのいど)」が今回の目的地です。
渋谷と新宿の間。「東京の名湧水57選」のひとつに選出されていることでその存在を知ったのですが、いくら森が広がっているとはいえ、まさかこんな都会に湧水が現存しているとは思いませんでした。それをこの目で確かめるために、南参道から神宮御苑へ向います。
神宮橋
JR原宿駅前の神宮橋前交差点。表参道の青山方向を観れば交通量は多く都会のど真ん中ですが、反対側に目を移せば、そこには森が広がっています。明治神宮の南参道入口にある神宮橋を通して見る神宮御苑の森です。
平日の午後、神宮橋の人通りはまばらで、外国人観光客が目に付きます。
南参道を入るとそこはもう森の中です。良く整備された広い参道を歩いて神宮御苑東門を目指します。
南参道
途中に神宮御苑の池から流れ出る沢に架かる橋を渡ります。沢の有り様は、在りし日の武蔵野の森を偲ばせます。
東門は開門していませんでした。御苑案内図の写真は北門にあったものですが、東門は通常は開けていないようです。南参道を進み、大鳥居の横を通り、北門へ回り込みました。
神宮御苑は、江戸時代初期以降、加藤家、井伊家の下屋敷の庭園だったそうです。その後、明治時代に入り宮内省所管となり代々木御苑と称され、武蔵野の自然が現在まで保全されたそうです。
明治神宮御苑
北門から御苑に入りました。御苑にひとたび足を踏み入れれば、そこはもう武蔵野特有の雑木林の面影を残す光と影の織り成す景観の場所です。
苑内に入るには有料で500円を支払いましたが、後から思えば安いものだと思いました。
苑内には順路を示した立て札が建てられています。北門から入って最初に見えてくるのが隔雲亭です。
隔雲亭
隔雲亭はお茶席の建物のようです。建物について語る知識は持ちあわせていませんが、古い建物で管理は行き届いていました。
順路に沿って進むと南池と御釣台が見ててきます。
南池
清正井から湧出する水によってできた南池。清らかな水は、豊富な清正井の湧水量と池から流れ出る水の流れによって保たれているのでしょう。
南参道の下を流れる沢へとつながっている水路です。南池沿いの道を通って菖蒲田へ向います。
菖蒲田は湧水の沢が流れる湿地、丘陵地の谷あいの低地である谷戸と呼ばれる地形の中にありました。
菖蒲田
庭園になる前は、おそらくここでは稲作が行われていたのでしょう。里山と呼んで良いのかもしれません。改めてここが渋谷区であることに驚きを覚えます。
光と影がとても印象的でした。訪れたのはちょうど紅葉が始まった頃で、もう何日か後に行けば、さぞかし美しい紅葉の景色を観られたことでしょう。苑内には、ツツジ、藤、山吹、サツキ、花菖蒲、睡蓮など様々な植物が四季折々の風景をもたらしてくれているそうです。
低地の最奥、三方を崖に囲まれた場所に清正井はありました。
清正井
水中の井戸枠のようなものの中から、まさに滾々と湧水が湧き出ていました。丘陵といってもそれほど起伏のある場所ではありません。こんな薄い濾過層でも、清らかな水を育むことができることに、改めて驚かされます。
清正井の湧水は人的要因による汚染の要素が少ない湧水ですが、飲用には不適です。ちなみに、どこでも同様ですが湧水の手前に「飲用不可」の立て札が建てられていました。
東京の繁華街は、かつて湿地だったところにあることが多いようです。新宿も渋谷もかつては湿地帯でした。浅草に到っては、かつては海だった場所です。浅草の名が示す通り、比較的周囲より早い時期に陸地を形成しました。浅草は異質な民族が交わる場所として独特の文化を生み出す下地があったのですが、それは元々湿地であったことに起因しています。
住みにくい場所で人々の暮らしの場所ではないがために開発が容易だったこともひとつの要因として挙げることができるでしょう。しかしそれだけではない、もっと人の心を要因とするという見解をどこかで読んだことがあります。
この代々木にある神宮御苑のある場所は、それほどの低地ではなく、大きな繁華街を形成することはなかったのでしょうが、しかし明治時代に宮内省所管とならなければ、湧水は滅失していたでしょう。
渋谷区代々木に武蔵野は確かに現存していました。
住みにくい場所で人々の暮らしの場所ではないがために開発が容易だったこともひとつの要因として挙げることができるでしょう。しかしそれだけではない、もっと人の心を要因とするという見解をどこかで読んだことがあります。
この代々木にある神宮御苑のある場所は、それほどの低地ではなく、大きな繁華街を形成することはなかったのでしょうが、しかし明治時代に宮内省所管とならなければ、湧水は滅失していたでしょう。
渋谷区代々木に武蔵野は確かに現存していました。
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