水紀行 - 隅田川その壱 浅草
東京下町の聖地「浅草」。海外にも知られる有名な観光スポットですね。
広い真ッ平らな土地の中に唐突に存在する聖地「浅草」。とても不思議な場所で、とてもひとつのイメージとしては捉えられません。総てを捉えきれることなどとても無理だろうと思わせるほどの様々な表情を持っています。
ターミナル駅としてはその機能を失った東部浅草駅から散策を始めました。さて、いか程の「浅草」を感じて帰ることができるのか。そう思いながら雷門へと向いました。
東武浅草駅前
東武伊勢崎線の起点駅である浅草駅。駅ビルには松屋デパートがあります。もともと北千住での乗降客が多かったので浅草駅の機能に変化があったのではないのですが、曳舟から東京メトロ半蔵門線へ相互乗り入れが開始され、曳舟から浅草はもはや支線的役割しか持たないと言っても過言ではないでしょう。
しかし起点駅であることには変わりが無く、かつ多くの人々が訪れる浅草へのひとつの入口であることにも変わりはありません。
浅草駅前、吾妻橋交差点。吾妻橋の向こうに高層ビル群がみえます。
交差点の一角には「神谷バー」。デンキブランと名付けられたカクテルで有名ですね。
雷門
吾妻橋交差点から西へ100mほど歩くと雷門前です。
現在の雷門は、慶応元年(1865年)に火災で焼失してのち、95年後の昭和35年(1960年)に再建されたものです。
ここをくぐり、仲見世を真っ直ぐに進めば浅草寺へとたどり着きます。
人ごみが嫌いな私は仲見世を避け、裏通りから向いました。従って仲見世の写真はありません。
浅草寺本堂「観音堂」は、昭和33年(1958年)に再建されたものです。秘仏である本尊の聖観音像が安置されています。絶対の秘仏であり、決して人の前に姿を見せないそうです。
宝蔵門をくぐり観音堂へと向います。
宝蔵門
宝蔵門はただの門ではないそうです。国宝「法華経」、重要文化財「大蔵経(元版一切経)」などを収蔵しています。
天慶5年(942年)に建立されたのが始めで、現在の宝蔵門は昭和39年(1964年)に再建されたものです。
観音堂と五重塔
急勾配の大屋根が印象的な観音堂です。
観音堂から見た宝蔵門と昭和48年(1973年)再建の五重塔。
浅草寺の境内にはいくつものお堂や祠、石造物があります。そして突然渓谷が姿を現します。
力石
「さし石」とも呼ばれるそうです。江戸時代後期、境内で行われた「力くらべ大会」に使用された石だそうです。
境内で力くらべが行われていたのは、隅田川と無縁ではなさそうです。
江戸時代、力仕事を生業とする人たちが隅田川沿いに多かったという事もあるでしょうが、現在の大相撲が同じ隅田川沿いで行われているという事に少なからず同じ背景を感じます。
三社祭の激しさにも通ずるものがあるのかもしれません。
淡島堂
数あるお堂の中で印象に残ったのが淡島堂。元禄年間に和歌山県加太の淡嶋神社から勧請されたものだそうです。
お堂の前にあったのがこの「胎内くぐりの灯篭」。修験道との関わりを感じ調べてみると、やはり淡嶋神社は修験道の聖地でした。
境内の渓谷
本堂西側にある池。反対側には石橋が見えます。
その石橋の方へ歩いていくといきなり唐突に渓谷が出現しました。まるで山奥にあるような急流です。
東京最古の石橋
そしてこの石橋、ただの石橋ではありませんでした。場所は移動してはいますが、元和4年(1618年)の建築で東京最古の石橋だそうです。
浅草神社は、明治9年に神仏分離令によって浅草寺と分けられるまでは浅草寺と一体で「三社権現社」と呼ばれていたそうです。だから今でも「三社さま」と親しまれ、祭りは「三社祭」と呼ばれているんですね。
浅草神社
浅草神社の手水舎からは清冽な水があふれ出ていました。この御神水は地下からくみ上げた地下水です。
江戸中期の本坊であり現在非公開の伝法院西隣に鎮護堂はあります。浅草寺の境内の裏鬼門にあたる場所です。
鎮護堂の湧水
浅草寺の境内の坤、土気線の裏鬼門にあたる場所にある鎮護堂。ここに龍の口から流れ出る「鎮護堂の湧水」と呼ばれている水があります。
湧水とされていますが、実際のところは境内の渓流を流れ池に注がれていた地下水でしょう。
この龍の水が風水を意識して存在するのかどうかは定かではありませんが、非常に興味深い存在です。
やはり浅草寺はとても不思議な場所でした。私の中でその印象は、その時々その場所によって変化します。
浅草寺を参拝する機会があったら是非時間を充分とって境内をゆっくり散策してください。そしてその場を感じてみてください。ここでは、その御由緒も大切ですが、それにも増して感じることが大事かもしれません。
浅草の街角に井戸を発見。うなぎ「小柳」さんの店先にある井戸です。
うなぎ小柳の井戸
井戸など珍しいものではないかもしれません。しかし上水道が完備されて長い年月が過ぎた現在もその井戸を維持し、きれいに清掃されていることには少し驚きです。
井戸を維持することは実はとても大切なことではないかと感じます。井戸は汚してはいけません。
うなぎ「小柳」さんには今回は入ることはできませんでしたが、次回は寄ってみようと思います。
浅草寺境内の東南に位置する小高い丘。周辺のにぎやかさとは対照的に静寂な場所でした。
弁天堂と時の鐘
「弁天堂」と、江戸時代、市中に時を知らせていた「鐘楼の鐘」。
言問橋は昭和3年に新たに架橋された比較的新しい橋です。構造は桁橋。景色の中に溶け込んだ美しい橋だと思いました。
言問橋南
カミソリ堤防からスーパー堤防へ改修された隅田川。堤防の内側に親水エリアが右岸左岸に広がります。
この橋ができることによって、「竹屋の渡し」と「山の宿の渡し(枕橋の渡し)」が姿を消したそうです。
水上バスが通り過ぎていきました。水上バス「東京水辺ライン」は、隅田川や東京湾、荒川などをそのコースとして運行されているようです。いずれ水の上から隅田川を感じてみたいと思いますが、まだまだ先になるでしょうか。私の隅田川探訪は始まったばかりです。
アサヒビールと墨田区役所
東武浅草駅ビル「松屋デパート」の屋上から観た墨田区吾妻の高層ビル群です。
アサヒビールタワーと墨田区役所。聞いた話ですが、アサヒビールタワーではおいしいビールが味わえるそうです。さもありなん。ここでなら出来立て新鮮、工場直送の生ビールが楽しめるのかもしれません。確認したわけではありませんが。
隅田川
北十間川へつながる水門。この先の東武業平橋駅前に「東京スカイツリー」が建設されています。かつて海だった場所に600mの電波塔が建設されるわけです。2012年完成予定。その頃にはどんな情報が発信されているのでしょうか。
隅田川はかつては住田川と呼ばれ、利根川・荒川・入間川の水が合流してこの地に流れ込んでいたそうです。その川が運んだ大量の土砂によって、かつて海だったこの地は陸地になったとのことです。現在は、利根川・江戸川・荒川で下町から水を遠ざけ、隅田川へ注ぐ水の量は減少しています。
浅草は周囲より早く陸地を形成したようです。浅い草という地名もそれを示しています。しかし人が住めるような環境でなかったことは明らかで、周辺地域とともに湿地帯として長く存在していたのでしょう。
多くの人が住むようになったのは、入植によってだそうです。歴史は浅いのですが、しかしそれを補って余りあるほど濃い出来事を積み重ねてきた隅田川沿岸。
浅草もまた、それを象徴するかのごとく複雑な街でした。何度行っても理解できないかもしれません。でも何度も行ってみようと思います。
浅草は周囲より早く陸地を形成したようです。浅い草という地名もそれを示しています。しかし人が住めるような環境でなかったことは明らかで、周辺地域とともに湿地帯として長く存在していたのでしょう。
多くの人が住むようになったのは、入植によってだそうです。歴史は浅いのですが、しかしそれを補って余りあるほど濃い出来事を積み重ねてきた隅田川沿岸。
浅草もまた、それを象徴するかのごとく複雑な街でした。何度行っても理解できないかもしれません。でも何度も行ってみようと思います。
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